山口刃物製作所の略歴

 

 

当時の台所風景

 大正元年 父(山口富之助)が本所太平町で鍛造工場を営む。主に工業用刃向けの刃物を製造し当時、母(山口たま)と二人三脚で 父が横座を母が先手で鍛造を行う。

{鍛造}1000°近い熱を加えた鉄をハンマーで目的の形に打ち出す手法。
横座・ハンマーで打つ打手
先手・熱を加えた鉄を持ちハンマーで誘導する担手。

昭和2年 向島吾妻町西4−17(現在の墨田区文花3−10−6)で長男(山口太四郎)次男(正美)と職人4名の計6名で向島山口刃物製作所を開設。
同年・山口勇 出生


 

 

当時の工場があった周辺の風景

昭和14年 太平洋戦争勃発 兄(山口太四郎)次男(正美)が戦時下召集令状を受け出兵。

昭和15年 兄の出兵を受け人員不足になった家業を継ぐ決心をする。

昭和17年 戦争も次第に激しさを増し燃料であるコークスや主原料である鉄材が入手できなくなり長期の休業状態を余儀なくされる。

昭和20年 終戦を迎え兄二人も帰還し工場を再開する


 

 

当時の台所風景2

同年9月 作業中の事故で私・山口勇は左手の親指を根元から失う(親指切断)も戦後復興の意欲で鍛冶や仕事をこなす。

昭和21年 日本国憲法が公布される

昭和24年 向島山口刃物製作所の評判を聞きつけ外注先からの注文が増える

昭和27年 この頃から一人で先手・横座をこなしながらハンマーを打つ。
ハンマーの重さ=30ポンド(13.5kg)


 

 

当時の工場があった周辺の風景2

昭和39年 新幹線(東京〜大阪間)開通 オリンピック東京大会開かれる
 東京オリンピック景気で鉄スクラップを切断する強靱な刃物の発注依頼が増える。
この頃のスクラップ切断用の刃物はハガネ製である。
包丁はハガネと生金(炭素を含まない鉄)の間に鉄ロウ(鉄粉にホウ酸とホウ砂を混合させた物)を付け1000度の熱を加え更に打ち付ける。
この作業をワカシ付けといいます。


 

 

山口一家

昭和43年 小笠原諸島が日本に復帰する 

昭和44年 長男(山口太四郎) 心臓病で他界

昭和46年 父(山口富之助) 脳出血で他界

昭和50年 工業用刃物から職人向け出刃包丁の依頼が主となる。
ハイス綱を素材とした和包丁作りに時間をかけ採算度外視と言われながら作業に没頭。時間を費やす。

現在に至る